東京・高井戸で56年もの長きにわたり、多くの人々の舌と心を満たしてきた老舗洋食店「EAT」。
人気ドラマ『孤独のグルメ』で紹介されたことで、その名は全国に知れ渡りました。
しかし、ファンに惜しまれつつも2024年6月12日にその歴史に幕を下ろしました。
高井戸EATの閉店理由は？
多くのファンに愛され、遠方からわざわざ足を運ぶ人も少なくなかった「EAT」。
孤独のグルメSeason8の第2話「東京都杉並区高井戸のタンステーキとミートパトラ」で取り上げられました。
なぜ閉店に至ったのでしょうか。
店主の根岸さんの高齢、体調不良のため（閉店時84歳）
閉店の最も大きな要因は、やはり店主・根岸政明さんのご高齢と、それに伴う体力の問題だったと思われます。
長年、たった一人で厨房に立ち、こだわりの味を守り続けた職人の、静かで重い決断の背景には、どのような想いがあったのでしょうか。
2024年6月12日に閉店した際、店主の根岸さんは84歳になっていたと考えられます。
2021年のインタビューでは、「75歳で疲れを感じ、80歳で老いを感じるようになりました」と、ご自身の体力の変化について素直に語っていました。
56年という半世紀以上にわたる歴史は、根岸さんの料理人人生そのものです。
15歳で洋食の世界に入り、30歳で独立。
それからずっと、厨房は根岸さんにとって「安らぎの場所」だったのです。
しかし、その安らぎの場所で腕を振るい続けるには、気力だけでなく体力も必要で、EATの料理は仕込みに膨大な時間がかかるものばかりでした。
看板メニューの「タンシチュー」の味の要であるデミグラスソースは、完成までに2週間もの時間を要したといいます。
こうした手間を惜しまない仕事ぶりこそがEATの味の根幹でしたが、ご高齢の身体には相当な負担だったことは想像に難くありません。
お店の元アルバイトの方もSNSで「シェフもご高齢なので心配です」と気遣う投稿をしており、周囲も根岸さんの体調を案じていたことがうかがえます。
「通ってくれるお客さんがいる限り、頑張らないとね」という言葉からは、生涯現役を貫きたいという強い意志が感じられますが、その想いと身体とのギャップに、長年葛藤があったのかもしれません。
最終的に閉店という決断に至ったのは、愛する店とお客様に完璧な料理を提供できなくなる前に、自らの手で歴史を締めくくりたいという、職人としての最後のプライドだったのではないでしょうか。
物価や人件費、光熱費高騰の影響を受けたため
根岸さんのご高齢という個人的な理由に加え、近年の厳しい社会情勢も、個人経営の飲食店であるEATにとって大きな逆風となっていた可能性があります。
直接的な言及はありませんが、様々な情報からその影響を推測することができます。
根岸さんの料理哲学は「良い材料を惜しみなく使う」ことで、そのこだわりは、奥様から「採算度外視が過ぎる」と心配されるほどだったといいます。
人気メニューの「ビフカツ」には150gの牛ヒレ肉を使い、タンシチューのタンも厚さ3cm近いものを使用するなど、素材への妥協は一切ありませんでしたが、このこだわりを維持することは、近年の世界的な物価高騰の中で非常に困難になっていたと考えられます。
牛肉をはじめとする食材費の上昇は、EATの経営を直撃したはずです。
光熱費の高騰も無視できません。
長時間煮込む料理が多い洋食店にとって、ガス代や電気代の上昇は大きな負担となります。
また、根岸さんお一人で店を切り盛りするのは難しく、ホールや調理補助のスタッフを雇う必要があったと思われますが、その人件費も経営を圧迫する要因になった可能性があります。
休業と復活を繰り返したのは生涯現役魂？
EATは、2024年に完全に閉店するまでの数年間、営業と休業を繰り返していました。
この不安定な営業状況は、多くのファンを心配させましたが、その背景には、店を続けたいという根岸さんの強い想いと、心身の限界との間で揺れ動く、痛切な葛藤があったように思われます。
大きな転機となったのは、2019年10月に放送されたテレビドラマ『孤独のグルメ』です。
放送後、EATには「聖地巡礼」と称してファンが全国から殺到しました。
これは「グルメ番組の悲劇」とも呼ばれる現象で、あまりの忙しさに店主が疲弊してしまったり、長年通ってくれた常連客が店に入れない状況が生まれていたようです。
休業は、心身を休ませるための苦渋の選択であり、そして営業再開は、自分の味を待っていてくれるファンに応えたいという職人としての意地と愛情の表れだったのだと思います。
この休業と復活の繰り返しは、まさに根岸さんが燃やし続けた料理人としての最後の情熱の軌跡だったのかもしれません。
弟子のお店はある？
あれほど独創的で、多くの人を魅了したEATの味。「どこかでその味を受け継ぐお店はないのだろうか」と願うのは、ファンとして当然の気持ちだと思いますが、残念ながらその可能性は極めて低いようです。
実際にEATを訪れたお客さんのブログには、「若い人が2人ぐらい？お弟子さん？調理補助みたいな方がいた」という記述が見られますが、その方も「味を受け継ぐのか？とか思って調べたんだけれど、そういった情報はなく、絶メシになっちゃった（泣）」と続けており、後継者がいるという確かな情報は見つけられなかったようです。
店主である根岸さんの職人としての強い信念があったと考えられます。
根岸さんは生前のインタビューで、「自分の目が行き届く範囲で仕事をしたい」と語り、都心への出店や支店オープンの誘いをすべて断ってきたことを明かしています。
広告宣伝に頼らず、お客様との縁と口コミだけで評判を築き上げてきたEAT。
根岸さんにとって、自分の料理は、自分の厨房で、自分の手で完成させてこそ意味のあるものだったのです。
この強いこだわりがあったからこそ、安易に弟子を取って味を継承させるという選択をしなかったのではないでしょうか。
高井戸EATの概要や人気メニュー
56年もの間、杉並区高井戸の地で、街の洋食屋さんとしてだけでなく、食通たちを唸らせる特別な存在として輝き続けた「レストラン EAT」。
1968年に創業したEATは、京王井の頭線の高井戸駅から徒歩10分ほど、人見街道沿いにひっそりと佇んでいました。
店主は、生涯現役を貫いた根岸政明さん。
店内はカウンター席もあり、一人でも気軽に立ち寄れる雰囲気でした。
支払い方法は現金のみで、クレジットカードや電子マネーは使えないという、昔ながらのスタイルを貫いていたのも特徴的です。
EATのメニューは、定番の洋食から、根岸さんの独創性が光るオリジナル料理まで、魅力的なものばかりでした。
- ミート・パトラ
『孤独のグルメ』で主人公・井之頭五郎が食したことで、一躍EATの代名詞となった一品です。熱々の器で提供される、スパイシーな挽肉とチーズが絡み合った、グラタンのようでミートソースのようでもある、まったく新しい料理でした。 - タンシチュー
根岸さんが「うちの定番」と自信を持っていたメニュー。2週間かけてじっくり煮込んだデミグラスソースをベースに、厚さ3cmはあろうかという牛タンが、スプーンでほろりと崩れるほど柔らかく煮込まれていました。 - チャーチャースープ
常連客のお子さんの愛称から名付けられたという、心温まるエピソードを持つボルシチ風のスープです。その優しい味わいは、多くの客の胃袋を掴みました。 - その他の名物料理
この他にも、肉汁あふれる「ハンバーグ」、濃厚な「ビーフシチュー」、150gの牛ヒレ肉を使った贅沢な「ビフカツ」、牛ヒレステーキにチーズを乗せた「ア・レ」など、名前を聞くだけで食欲をそそられるメニューが数多く存在しました。
これらの料理は、もう二度と味わうことができない「絶メシ」となってしまいましたが、その記憶は訪れた人々の心の中で生き続けています。
Q&A
ここまでEATの閉店について詳しく見てきましたが、まだ気になる点も多いかと思います。
ここでは、よくある質問から少しマニアックな疑問まで、Q&A形式でお答えしていきます。
- EATが閉店したのは具体的にいつですか？
2024年6月12日(水)をもって閉店しました。1968年の創業から数えて、56年の長い歴史に幕を下ろしたことになります。
- 『孤独のグルメ』では、具体的に何が紹介されたのですか？
2019年10月11日に放送されたSeason8の第2話で登場しました。作中で主人公の井之頭五郎は、看板メニューの「ミート・パトラ」と「チャーチャースープ」を注文しています。放送後は、このセットを求めて多くのお客様がお店を訪れたそうです。
- メニュー名が「ア・レ」や「チキン・オー」などユニークですが、何か由来はあるのですか？
全ての由来が判明しているわけではありませんが、根岸さんの遊び心が反映されているようです。「チャーチャースープ」が常連客のお子さんの愛称から名付けられたように、メニューには一つひとつに物語があったのかもしれません。「これは何だろう？」とお客さんに想像させるのも、根岸さん流のおもてなしだったのだと思います。こうした独創的なネーミングセンスも、EATが多くの人に愛された理由の一つでしょう。
- 店主の根岸さんは、お店以外のプライベートな時間は何をしていたのですか？
2021年のインタビューによると、根岸さんの生活はほとんどが厨房で過ごす時間で、丸一日休むのはお盆と正月くらいだったそうです。その貴重な休日には旅行に出かけ、ホテルのレストランを巡って食事をするのが楽しみだったとか。また、実は大変な麺好きで、お店のブイヨンスープを使って自分でラーメンを作ることもあったそうです。「うまいんだ、これが」と語る姿からは、料理を心から愛する職人の顔が垣間見えますね。
- テレビ放送の影響は、お店にとって本当に「悲劇」だったのでしょうか？
これは非常に難しい問題だと思います。知名度が上がり、多くのお客様に来てもらえたことは、お店にとって喜ばしい側面もあったはずです。しかし、根岸さんはもともと「自分の目が行き届く範囲で仕事をしたい」と考え、広告宣伝もしてこなかった職人気質の方でした。そのため、テレビ放送による爆発的な客数の増加は、お店のペースを乱し、根岸さん自身や長年の常連客にとっては、必ずしも歓迎できることばかりではなかったかもしれません。光と影、両方の側面があったというのが、正直なところではないでしょうか。
